才谷君のなんじゃそら!

2012年はいよいよ○○???
<< December 2019 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
LINKS
RECOMMEND
RECOMMEND
PROFILE
SEARCH
<< 所属教団への想いは | main | 男と女 >>
牧師・伝道師に告ぐ
0

     最近、体が重たい。気持ちも重たい。いや、体調が悪いわけじゃない。この週末は、遅くまで飲み歩いてたし・・・

     そりゃ飲まないとやってられんよ、こんな頻繁に教職の言動に対する問題が起きたらね自分たちの言動がどれだけ信徒に大きく影響するのかを、もう少し意識してほしい。先の記事にも書いたように、所属教会の雰囲気が何かおかしいということは教職にも伝えた。

     では、何がおかしいのか

     教会に集う人々の気持ちに、一致が見られない。というよりは、バラバラ感が非常に顕著に見受けられる。教職同士、教職と信徒、信徒同士の関係がこんなに足並み揃っていないのは、私も初めての経験かもしれない。だからこその違和感なのかも。

     礼拝が終わると、多くの人はそんなに長く教会に留まっておらず、兄姉とも交わりを持とうとしたくないかのようにそそくさと去ってしまうし、教職は次のスケジュールの準備などの為、忙しそうに動き回って信徒との交わりもお愛想程度。教職同士も、ミーティングの時はそりゃ話すだろうけど、それ以外でコミュニケーションをとっている様子はそんなに見受けられない。

     それはどうしてだろう。

     前提として、日曜日の教会におけるスケジュールの過密化が挙げられる。かつては朝・昼・夕の礼拝と、必要に応じて教師会や役員会等のミーティングもあったが、最近では各礼拝の合間に外国語(英語以外の)礼拝やセミナー、公園伝道、もちろんミーティングも入っていて、常にどこかしらでなにかしらしている状態。心が休まるときがないのだ。

     その結果、信徒は気の使わなくていい外へ出かけ、教職は忙しさの余り他への気配りをする余裕がなく、ピリピリした雰囲気になる。そら誰も近づかんて。

     そんな中、数人の方が私に問うてきた。

     『教職ってさ、愛がないよね~すごく傷つけられる言葉言われた

     私もかつてそのような想いを抱いたことのある経験はあるので話を聞いてみると、あることで相談に行ったのに、冷たい言葉で返された、とか、世間話をしていたのに、嫌味のような言葉を浴びせられた、とか・・・

     教職のフォローをするわけではないが、多少は仕方のないこともある。心に余裕のあるときにそのような態度は論外だが、今の教会の状態では余裕がないに決まっている。やることが多すぎて、物事に優先順位をつけて一つひとつ捌いて行かないといけないことだってある。ピリピリした気持ちで応対すると、軽い気持ちで放った発言も、つい事務的・機械的になりやすいこともある。本人は悪気がなく発した言葉が、信徒を傷つけてしまうこともあるだろう。それは少なからず仕方のないことなのかもしれない。

     しかし私は、牧師・伝道師に告ぐ。
     
     ○己の立場をよく認識しなさい。キリストの似姿に近づこうとするキリスト者としての模範とならなければならない職に、召命か何かしらんが自分の意思で就いたのだから、常に自分の一挙手一投足を確認しながら動くこと。
     ○信徒は見ている。『神に立てられた器』がどれだけのものか。大きくなれと言うのではない。使いたいと思われるような器になれ。目指したいと思われるような器になれ。
     ○言葉には十二分に注意しなさい。例え悪気なく発した言葉が、人の心の奥深くまでえぐるような刃物となっているかもしれない。言っていい言葉、悪い言葉をわきまえると共に、言っていい人、言ってはいけない人をも見分けないといけない。
     ○弱音・愚痴はいくらでも吐きなさい。恥ずかしいと思うそのプライドが、あなたを駄目にしていくのだから。カッコ悪さを見せたその瞬間、人はあなたを受け入れる。
     ○教えようと思ってはいけない。あなたの知らない広い世界で、信徒は日常を生きているのだ。あなたよりも何倍もの知識と経験をもっているのだから、彼らを見下ろしてはいけない。
     ○常に己を省みなさい。罪は気付かないうちに犯すもの。『私は大丈夫』という過信が、人々を福音から遠ざける。
     ○あなた自身が躓きの石とならないように注意しなさい。福音に導く者が、人々を福音から遠ざけてしまうことこそ、最も重い罪だと認識して働きなさい。

     これらのことが出来ないというのであれば、私は一キリスト者として、教職者としての立場を即刻お辞めになることをお勧めする。

    | 才谷龍太郎 | キリスト教の話 | comments(11) | trackbacks(0) | - | - |
    ヘザ〜 (2011/06/22 10:23 PM)
    才谷さん こんばんは。
    礼拝の説教中に個人のプライバシーを話し出すモウロク牧師
    そんな牧師に何も言えない信徒達
    プライバシーをばらされた姉妹は深く傷つき去っていった。その傷が他のところで癒されていることを願います。

    信徒達と集会後に居酒屋へ行き、そこにいない信徒に相談された内容をばらす牧師もいました。

    教会にいると失望し、傷つくことだらけです。

    でも、昨年から私は、カソリックの黙想会に少しずつ参加するようになりました。
    人を通してではなく、直接キリストと関われる経験を重ねて落ち着いてきました。
    改宗も考え始めていますが・・・まだ分かりません。

    何故教会は冷たく、愛がないのでしょうね。
    才谷龍太郎 (2011/06/23 8:52 PM)
    >ヘザーさん

    コメントありがとうございます?うちの教会の教職はそこまでひどくはないですが、何とも自身の発するものに責任感が伴わないところがありまして…
    言わないとわからないかな〜と、少し残念な想いです。でも、言ってもわからない奴よりはまだいいです。まだ希望は持てます。
    なぜ教会に愛がないと言われるのか…それを私自身の反省も踏まえつつ、教職と一緒に考え・祈り・改善していきたいと思ってます。教職にも寄り添いながら、いい牧会への道を探っていきますよ?
    さやか (2011/11/27 8:29 AM)
    あなた何様?
    才谷龍太郎 (2011/11/27 9:42 AM)
    >さやかさん

    コメントありがとうございます。そう思いますよね(笑)何と思われようとこれが私のスタンスですので、不快に思われる方はご遠慮頂いた方がよろしいかとm(_ _)m
    一つ言わせていただくと、私はキリスト教界を憂えてこれを書いているということ。教職に愛想尽かしたら、教会から離れるでしょう。
    大坂太郎 (2012/03/07 5:31 PM)
    「牧師、伝道師に告ぐ」興味深く読ませて頂きました。ここに書かれていることは確かに多くの牧会学の本に書かれていることに共通しますね。私自身、牧師(教団の呼称では正教師)として常に自戒が必要だと思います。失敗の多いものですしね。ただ「教えようと思ってはいけない」という項目についてはどうでしょうか。確かに「上から目線」で教導されるのは兄弟姉妹としてはいやなものでしょう。また信徒の方がいろいろなことを知っているというのも確かですね。でも伝道者はやはり「みことばを教える教師」ですから、教えるときは兄弟姉妹一人一人をリスペクトしつつ、なおきちんと教えようとすることは全く問題ないばかりか、大切な伝道者の資質だと思います。教職と一緒に考え、祈り、改善していきたいという才谷さんの思いが実るよう祈ります。祝福。
    才谷龍太郎 (2012/03/08 12:23 AM)
    >大阪太郎さん

    まさかあなたからコメントいただけるとは思いませんでした(笑)
    改めまして、才谷龍太郎です。はじめましてm(_ _)m弟さんには学生時代、大変お世話になりまして。。。

    >でも伝道者はやはり「みことばを教える教師」ですから、教えるときは兄弟姉妹一人一人をリスペクトしつつ、なおきちんと教えようとすることは全く問題ないばかりか、大切な伝道者の資質だと思います。

    もちろん、そのようであれば正しいことです。私も言うことはありません。しかし、そうでない場合が多いと思えるのは何故でしょうか?教職の中で、余りにも甘えがあると感じます。人に厳しく自分に甘く。昔はこんなこと少なかったように思います。
    ある人が言いました。『今の牧師はサラリーマン化してる。』これはどういう事か、考えて頂きたい。
    才谷龍太郎 (2012/03/08 12:56 AM)
    『献身』とはなんでしょう?文字通り"身を献ぐ"ですが、では誰に?
    もちろん神にですが、それだけですか?私は、人に対しても同様に思います。
    ところが、昨今の牧師はどうでしょう。『先生、先生』と神輿に担がれ、踏ん反り返ってる輩が多い。使途の足を洗ったキリストの姿とは程遠い。そんな奴らに上から言われたところで、気に入らないのは当然です。
    教団は、理事会からそんな風に感じますね。末端で貧しくも正しく働いてる牧師の方が尊敬に値します。
    『サラリーマン』というのは、そういうところに表れてるのだと思います。
    大坂太郎 (2012/03/08 7:47 AM)
    才谷さん:

    >ある人が言いました。『今の牧師はサラリーマン化してる。』これはどういう事か、考えて頂きたい。

     これと次のコメントだけにレスをつけ、正鵠を射ることはかなり難易度が高いように思いますが、やってみます。

    ,泙宰匯佞その働きによって謝儀(給与)を得ることは聖書に適っており、その意味で牧師がサラリーマンであることは当然のことです。(参考:汽灰螢鵐9:1-14)これはパウロが言うように権利であると考えられます。だから牧師が謝儀によって生活を立てるのはみこころに適っています。

    △任垢、この文脈は15節に示されるように「しかし私はこれらの権利を一つも用いませんでした」と続いていき、18節ではパウロが自分の報いはあえて権利を放棄して福音をのべ伝えることであると語っています。つまりパウロ自身は権利に生きる以上に自由に生きることを選び、結果として「サラリーマン化」することを拒んだといえましょう。

     問題は,鉢△里匹舛蕕鮓タ伴圓離戰鵐船沺璽(水準点)とするかですが、これは当然に,任后なぜならパウロはこれらのことをモーセの律法や主の教えを根拠にして説き起こしているからです。では△呂匹Δ覆襪里任靴腓Α私が考えるにそれは献身者が個々に目標とするところだと思います。献身の道を歩んでいく中で、伝道者は時に既得の権利を投げ出しても、宣教の自由に生きることへ押し出されていくことがありますし、極限までの自己否定を迫られることもあるでしょう。また徹底的に他者への奉仕に生きることになることもあるでしょう。しかしここで注意しなければならないのはパウロが注意深く「一般則」と「個々人の信仰による歩み」を混同せず、むしろ峻別していたということです。パウロは確かにサラリーマン牧師ではありませんでした。それによって自由を得、大胆に伝道し、それを誇りとさえしています(汽灰9:15)。しかしながら彼はサラリーを得て働くほかの教師たちの権利を壊さないような愛と配慮を決して忘れませんでした。

     もし自分がサラリーマン牧師ではなく、本当に福音のために専心している、パウロのごとき、福音の使者を自称するならば、その人はおそらくはパウロのようにそれを誇りとし、時には自分の弟子たちにそのような潔い人生に歩むことを求めることがあったとしても、他方で伝道者にある種当然与えられてしかるべき権利は擁護し続けねばならないということになるように思います。サラリーマン牧師だからダメだと制度自体を否定するのは全く正しくありません。

     パウロの道は実に高邁な精神と行いの一致であり、伝道者に生まれたなら、みなここを目指したいものですが、なかなかそこに至りません。私などは特にそうです。そこで才谷さんをはじめとする信徒の方々の期待に応えられないということになるのでしょうね。私自身はまずパウロのように「自分も失格者となりはしないか」という主への恐れとおののきをもちつつ進みたいと思います。まずは自己反省からです。

     以上あまり十分に答えられたとは言えないでしょうが、牧師のサラリーマン性ということについて考えてみました。また何かあればコメント下さい。祝福。

     
    才谷龍太郎 (2012/03/08 12:52 PM)
    >大阪太郎さん

    長々と詳しいご説明ありがとうございます。

    どうやら、『サラリーマン』という言葉の意味が伝わってないようですね。
    牧師をして報酬を得る、もちろん仕事ですから当然ですね。私はそういうことを言いたいんじゃない。
    先にも言いましたが、『献身』とはどういうことですか。神の代弁者として、人を支配することですか?神に仕え、人に仕えられることですか?『先生、先生』と呼ばれて神輿の上で踏ん反り返ることですか?

    極端かもしれませんが、そういう人が目立ちます。牧師をして、そこそこの報酬をもらって、生活できたらいいかぁ…みたいな、甘い考えの人がいるということ。牧師業に甘えている人が多いということ。本気で献身してるようには思えないです。伝道して信徒増やしに躍起になって、牧会を疎かにし、信徒一人一人に注ぐべき愛を失っています。
    - (2015/08/26 11:01 PM)
    管理者の承認待ちコメントです。
    - (2015/08/27 12:21 AM)
    管理者の承認待ちコメントです。









    url: http://come.ag-kyoto.com/trackback/1297767