才谷君のなんじゃそら!

2012年はいよいよ○○???
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聖霊の満たし
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     一体なんだっていうんだよ・・・

     私の所属する教団の月刊誌を読んで、またまた怒り心頭に発してしまいました

     以下はとある牧師の記事を要約したものです。

     『神の霊に満たされた人は教会に仕えるために満たされたのである。・・・「満たされる」という体験は、個人の中で完結してはならず、外部に出されて始めて目的が果たされるのである。 
     教会生活から離れて、聖霊に満たされているということは違和感を感じる。なぜなら、神はキリストの体なる教会に人々が仕えるために、神の霊を持って人を満たすのである。つまり、教会に仕えるために神の霊に「満たされる」のである。
     従って、「聖霊に満たされましょう」という掛け声は、同時に「あなたの教会に心底徹底して仕えましょう」ということを意味しているのである。
     皆さんは、今日、ご自分の教会に何をもって仕えていますか?』


     もうね、クリスチャン辞めたくなるわ、こんなアホ牧師ばっかじゃ・・・いや、ばっかじゃないから辞めてないんだけども(笑)

     そもそも、「聖霊に満たされる」という事象は非常に定義が曖昧で、それこそなんでもアリかというほどにいろんなことが当てはまってくる。

     所謂、『異言』や『予言』、祈りの中で神の声が聴こえただの幻を見ただのといった超常現象を指す場合や、沈んでいた心が急に解放された。などの癒し体験、切迫した状況の中での咄嗟に取った正しい反応を指す場合もある(これは私自身体験してますが)。

     それらがみんな、『(建物である)教会に仕えるため』にあるとしたら、聖霊とはなんと狭量な存在であろうか。聖霊とは、教会にも、個人にも深く働く果てしなく大きな存在であるはずなのに・・・ましてや個人の聖霊の満たし体験を、個人の中で完結してはいけないなどと聖書のどこに書いてある誰がいつ決めたのだろうか。

     このことに関して今回、多くの教団関係者にご意見を伺うことが出来た(っていうか、片っ端から知り合いの牧師・伝道師に電話掛け捲って質問してみたんだけど)。すると、意外なことが見えたりした。

     ある方は
     『ある意味、聖霊体験をした者が教会に仕えるというのは、信仰者としての義務だと思う。』
     と仰り、またある方は
     『教団の土台として、ペンテコステ(使徒2章)があるから、そういう考えかたは決して間違っているとは言えない。』
     と仰った。

     そう考えるとなるほど、納得はできる(すみません、クリスチャン以外の方はサッパリでしょうが)。そういう意味では、この記事はあながち明後日の方を向いたものではないのかもしれない。

     しかし一方で
     『田舎でこういうことを言うと、信徒はついて来れない。恐れを抱いてしまう。』
     『教会に縛りつけようと誘導する常套手段だ。』

     等の意見も。私としても、信徒が教会に仕えるというのは確かに教会員の義務だとは思ってはいるけども、それはあくまで努力義務。信徒数の少ない教会でこんな強引な伝道したって人は集まらないし、信徒数が多ければ却ってカルト化しやすい。そんな微妙な問題なのに、こうもあっさりと『こうだ』なんて言っちゃうのはナンセンス。おマヌケ極まりない発言だ

     が、しかし、一番多かった意見はこうだ

     『ま、そういう牧師もいるってことよあんまり気にしないほうがいいんじゃない

     はぁ、、、仰るとおりで。。。って、いや、みんながみんなそうやってこういう牧師を放置しておくから、いろんな問題が次々と沸いて来るんだよ諦めちゃ、妥協しちゃダメだよっていつも一人騒いでるんだけどね(笑)

     一番癇に障ったのは

     「聖霊に満たされましょう」という掛け声は、同時に「あなたの教会に心底徹底して仕えましょう」ということを意味しているのである。

     という一文。あんた一人でやってればって感じ。っていうか、あんたは教会に仕えてんのかいって言いたくなる。その筋では下手に名の知れた人だからね。大きい教会らしいし、信徒にセンセーセンセーって持ち上げられて仕えるどころか仕えられてるのが見なくてもわかる。カンチガイしちゃったのかな〜

     ともあれ、うちの教団ではあながち間違った理解ではないらしいということが見えてきたのはある意味収穫。しかし、他教団ではその主張は通らないところもあるのだから、これって決め付けないで、いろんな人がいるんだから牧師はもっと柔軟な頭でなくてはいけないと改めて感じたことでした。

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